子育てから教育への移行期に考えること | アタッチメントアカデミア

子育てから教育への移行期に考えること

子育てから教育への移行期に考えること

子育てから教育への
移行期に考えること

「教育」が子どもの可能性を奪ってしまうことがある

子育ては、あるタイミングから「教育」へと移行します。幼児期なら「幼児教育」、その先は「学校教育」です。子育てそのものは、子どもが成人して自立するまで続くわけですが、ある時点から「教育」が入ってきて、やがて子育ての営みの多くが教育へと移ってゆきます。

子育てから教育への移行期に考えること

親は、子どもの能力や才能を引き出し、それを最大限に伸ばし、将来のアドバンテージになることを願い、「教育」を与えようとします。塾や習いごと、スポーツクラブや私立のお受験といったものが、そのもっぱらの対象です。しかし、これらは、もろ刃の剣です。親の思いとは反対の結果をもたらすことも少なくありません。

子どもが、その時期に身につけるべき自己肯定感や自律心、探求心、好奇心、共感性といった非認知スキルを構成する大事な発達課題を獲得する機会が奪われるかもしれません。その結果、その子が本来持っている未来の可能性は、「教育」によって踏みつぶされてしまうこともあります。

子育てから教育への移行期に考えること

もっとも避けたいのは、「あなたのためだから・・・」と言って、親の欲やエゴを子どもに無理やり押しつけた結果、子どもの人生を踏みにじってしまっていたことに、思春期を過ぎてから気づかされることです。こうした“思春期の悲劇”は、そこら中で実際に起きています。「教育」というのは、本当に曲者なのです。

気を付けていても、多くの親は、子どもを支配してしまう

だからこそ、この子育てから教育への「移行期」に、親や教育者は意識的・意図的にならなければなりません。そのために、わたしたちは、子どもの「教育」において、つねに向き合わなければならない一つの問いがあります。

「主語は誰か?」

お受験塾に通った方がよいと考えたとき、通うのは、子どもですが、通わせたいのは親です。ここで生じる主語の違いを、正確に認識し、それに対して意識的・意図的であることです。当然ですが、本来は常に主語は「子ども」であるべきです。つまり、子ども自身の意志が最優先です。

子育てから教育への移行期に考えること

しかし、問題はそれほどシンプルではありません。子どもは、世の中を知りません。経験もありません。だから、親が選択肢を提示したり、誘導したりすることは、子どもの可能性を最大化する上で必要であることも多々あります。むしろ、そういうケースの方が多いでしょう。さらに、子どもは4歳も過ぎれば、親や大人の顔色を見るようになります。「塾は楽しい?」とお母さんに聞かれれば、お母さんを喜ばせるために「楽しい!」と答えたりもします。そして、親は言います。「子どもが行きたいと言っているんです」

たとえ子どもが「嫌だ」と言ったとしても、「あなたが行きたいと言ったのだから、嫌なときでも行きなさい」とか「この前は楽しいって言ってたじゃない。行けば楽しいわよ」などと言われて、通い続けさせられます。これこそが、親の押し付けであり、支配以外のなにものでもありません。そして、思春期になったころ、張り詰めた糸がプツンと切れるように、うつ病や不登校といった形で悲劇が起きるのです。

子育てから教育への移行期に考えること

続けるも、やめるも、決定権が子どもにあればよい

では、どうするのがよかったのか?

子どもの「行きたくない!」には、きちんと応えて、休ませてあげることが必要です。塾にしても、習い事にしても、スポーツクラブにしても、お受験にしても、必ず「行きたくない」とか、「やめたい」という日は訪れます。本当の主語は、子どもなのだから、この気持ちは、きちんと尊重されなければなりません。一度は休んだあと、また行きはじめるかもしれません。そのままやめてしまうかもしれません。その決断は、子どもに委ねられるべきものです。

この方針をきちんと守りさえすれば、塾でも、習い事でも、スポーツクラブでも、お受験でも、何をやらせてみても大丈夫です。最終決定権が子どもにありさえすれば、たとえやめてしまったとしても、費やした時間とお金は、経験として残ります。さらに、そこから子どもが何かに気づいたり、発見したりできれば、それはエアレープニス的体験となり、そこから発達課題を獲得してくれます。そうして得たものは、必ず将来の武器になります。

※「エアレープニス」がわからない方は、まずはこちらをお読みください >>

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